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2014/08/06 STAP細胞論文の著者の1人で、神戸・理研の笹井芳樹副センター長が理研に隣接する建物での死亡を受けたコメント2つ。理化学研究所・野依良治理事長「この度の訃報に接し驚愕しております。衷心よりお悔やみを申し上げます。世界の科学界にとってかけがえのない科学者を失ったことは痛惜の念に堪えません」改革委員会の委員長として理研に改革を提言していた岸輝雄・東京大学名誉教授は、「理化学研究所の責任は大きい。『理研の中で笹井さんが他に移るように』と改革委員会は提言したんです。もし笹井さんがその延長で責任を取って理研も辞めたりしていれば事情は随分変わっていたかなという気はしています。責任を負い続けたゆえの悲劇であった可能性も?)そうなんですね。理研のここに対する責任は非常に大きなものがあるという感じ方をしております。STAP問題のある種の幕引きを笹井先生が先導してしまったかなと」 もう1つ。英科学雑誌「ネイチャー」は?理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーらが発表したSTAP細胞の論文2本を撤回した。これによって笹井芳樹副センター長の国際的業績はゼロに。これも重荷だったろう。論文の共同執筆者である米ハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授は「論文の信頼性が失われている」との声明を発表したが、STAP細胞の存在そのものについては「理研が証明してくれると信じている」と話していた。この思いもゼロになった。「永遠の0」である。
2014/08/03 アゾレス諸島は、大西洋の中央部マカロネシアに位置するポルトガル領の群島である。ポルトガル沖約1000kmの大西洋上に浮かぶ。1427年に発見された。リスボンから約1500km、北米の東端から3900kmの位置にある。火山が起源で9つの島からなる。ピコ島の火山ピコ山は標高2351mでアソレスのみならずポルトガルの最高地点だ。捕鯨や遠洋漁業の基地としても使われ、現在は温暖な気候から保養地として人気がある。ポルトガル人ディエゴ・デ・シルベスによって「発見」された。マルティン・ベハイムによれば、1431年にエンリケ航海王子の配下の船長の1人によって発見されたという。その地理上の位置から、発見当時は新大陸への重要な航海基地となった。1439年以降植民地化が進むが、初期はポルトガルからの移住者を中心とするものの、各国から移住者があった。1583年、スペイン王フェリペ2世がポルトガル王としてフランス人商人を排除するためにアゾレス諸島に船団を派遣した。アゾレス諸島は、ポルトガル領の中で最後までハプスブルク朝のスペイン王フェリペ2世のポルトガル支配に抵抗した土地となった。1820年からの内戦では、アソレス諸島は自由主義派の拠点となり、テルセイラ島にマリア2世の宮廷が置かれた。1939年に勃発した第2次世界大戦中、ポルトガルは中立国であったが、英国との友好関係や米国からの政治的圧力があったため、戦時中は事実上連合国の基地として使用されていた。1976年以降、アソレス諸島全体は自治権をもつ1つの行政区となっている。アソレス地域圏の首府と行政府はサンミゲル島のポンタ・デルガダ、議会はファイアル島のオルタ、司法上の中心はテルセイラ島のアングラ・ド・エロイズモに置かれる。リスボンのほぼ西に位置する。総面積は2355km2。気候は1年を通じて温暖。アソレス諸島は、大西洋中央海嶺とホットスポットが重複した位置にあり、基本的には、火山島である。西経25度~31度の位置にあることから、ポルトガル本土やマデイラ諸島よりも1時間遅い。スペイン本土とカナリア諸島の関係に似ているが、スペインよりも1時間遅れている。リスボンおよびポルトとサンミゲル島のポンタ・デルガダの間に定期便が就航するほか、ヨーロッパの主要都市との間にも定期便が運航されている。ポンタ・デルガダ空港からアソレス諸島各島に航空便がある。人口は全島を合わせて24万人強で、その半分以上がサンミゲル島に住む。2002年12月31日の統計では、全島の人口は23万8767人、人口密度は106人/km2である。全人口の95%がローマ・カトリック信者だ。テルセイラ島のアングラ・ド・エロイズモは世界遺産に登録されている。諸島内には16世紀から18世紀にかけた建築物が随所に残る。テルセイラ島のアングラ・ド・エロイズモの市街と、ピコ島のワイン畑の景観がユネスコの世界遺産に登録されている。出身者には、2002年と2006年のFIFAワールドカップに、アソレス諸島から初のポルトガル代表選手として出場したペドロ・パウレタがいる。ポルトガルはリスボンと西の果てロカ岬にしか行ったことがない。古いものを残しながら保養地としての現代を結びつけるためにアゾレス諸島はどんな物語を創り上げたのだろう。
2014/08/03 学問発祥の地ギリシャ・アテネの近くにミネルヴァの森があった。ギリシャ神話のお話。「ミネルヴァのフクロウは夜飛び立つ」とか「ミネルヴァのフクロウは黄昏にようやく飛翔する」とかいうのが、もともとのセンテンス。The owl of Minerva first begins her flight with the onset of dusk. この森にはフクロウが住んでいて、夜になって森が暗くなると、フクロウが飛び立って、夜道を照らした。つまり知識の象徴であるフクロウは「夜」になって活躍する、ということ。丸山真男氏の解釈によれば、「一定の歴史的現実がほぼ残りなく自らを展開し終わったととき、哲学はこれを理性的に把握するヘーゲル主義を逆転させたところにマルクス主義は成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落を証となるところに資本主義生産の全工程を理論化しようとするデーモニッシュなエネルギーの源泉があった」という。「夜」は人生における「晩年」とも取れる。哲学者ヘーゲルは、これを『法哲学』序論に用いたので、「ミネルヴァのフクロウ」=「哲学」の象徴としても使われた。日本人には「フクロウ」はどちらかというと気味の悪いマイナスイメージの鳥だが、ヨーロッパでは「知識」の象徴だ。物事には最初の段階から矛盾が発生し、その矛盾は最初の矛盾の否定ではなく、より高い段階に止揚され、真の姿を顕現するという弁証法の考え方を説明したものだ。人間の知恵の象徴であるフクロウは常に後知恵で、事物の本当の姿は矛盾が露呈して滅びに差し掛かったころになってやっと理解される。人類にとって20世紀とかなんだったのか?20世紀のフクロウは飛び立ったが、21世紀のフクロウは深い眠りの最中にある。ーと思っていたところに「ミネルヴァのフクロウ」(草野章二著、発行協力・長崎新聞社)に遭遇した。古希の一徹で冴えた論法の時事エッセー26篇の結論を拾ってみよう。「カラオケで老人が歌うマイ・ウェイをどうか寛大な気持ちで聴いてほしい。老人には若者ほどの時間は残されていないのです」「先生、先生の教えを憶えていた教え子はまだいました」「人生を畳むのと別れの儀式には何か新しいことを企ててみたいものだ。ボケかかった、ちょっと悪老人の最後のあがきとして面白いと思う」「快気祝いは会費制でやるといっていた。やれやれ困った男だ」「もしかしたら彼は哲学者などではなく、単なる落ちこぼれの本当の馬鹿かもしれない」「世間ではこういう意見を『出てない奴のひがみ』というらしい。やれやれ、壁は依然として高い」「曽野綾子さんに笑われないようにしないとこの国は長くない」「不条理と思えることをそのままにしておくことが本当の不条理だと思う」「絶滅種から免れるのは現存するかけがえのないホモ・サピエンスの知恵次第だと思う」「21世紀には新しい哲学が必要に思えてきた」「トップの責任」の項では「この1節は彼らには読ませないようにしよう」となっている。長崎新聞社からの冴えた一冊を読んで皆で頭の体操をしたい。最後の最後の結論は「幸いにして年金生活者には学ぼう思えば、時間は幾らでもある」とある。面白く長く生きる勇気が湧き起こってくる。感謝!
2014/08/01 佐渡には今どんな風が吹いているのだろう。「佐渡に吹く風」(考古堂)は両津・梅津の大阪三郎氏が新潟日報に書き綴った島の在り様や風俗習慣を提言した辛口批評である。読み返してみると切り口はいずれも新鮮で鋭い。佐渡にいてニュースの受容者であったはずなのに、はっとするほど本質を読み取った記述がある。1997年9月6日の「慎むべき美化報道ーダイアナさん死去」に「ダイアナさんの死は謀略による殺人だとリビアの独裁者カダフィ大佐が声明を出して英国政府から抗議を受けた。リビアでそれが真実として通るなら、国家を構成する権力や宗教の違いが人間の目を真実から遠ざける操作に大衆は鈍感であってはならない」とある。酒場の憂さ晴らしのような話として英国人は「ダイアナ妃の真実」を知っているが、それは公式メディアで公表されることはない。1983年の佐渡観光協会事務局長時代には離島振興のために「共和国ごっこ」を「空虚な主題に終わらせてはならない」と呼びかけた。井上ひさし氏の「吉里吉里人」を語りながら奄美大島の「サンサン王国」「与論島の「パナウル共和国」福島・二本松市の「ニコニコ共和国」を論じた。この段階で「佐渡の独立論はコンミューン形式への模索としてかなりラジカルな契機を含んだものであったが、今のところ足踏みしている」としている。埼玉のラドンセンターで第1回佐渡サミットが開かれ、今となってみれば、これが1島1市への佐渡独立への第1歩であった。この時の佐渡側のまとめ役が大阪三郎氏であった。佐渡1島1市の実現は大阪氏には「共和国ごっこ」なのでであろう。離島振興関連とメディア人脈に深く根を張りながら島から発信する姿勢は不動のものであった。「佐渡人のくらしをつむぐ」の感想が新潟日報事業社の関本道章社長から届いた。「冒頭の文章にあった、ダイニングアウトの話は、小生も昨年参加しました。博報堂の企画です。高級な佐渡の旅を演出したのですが、残念ながら、続きません。佐渡で暮らしたことがあるので懐かしい。お兄さんが教員で「ときわ」。小生の父も小学校の先生で「ときわ」でした。最後まで校長にならず頑固な教員だったようですが、生徒には慕われていたようです」新潟日報には佐渡支局の経験者が多い。関本氏もその1人である。「佐渡に吹く風」でも佐渡支局の体験者が何人も登場してくる。
2014/07/30 明治の財閥、薩摩治郎八の寄付によってたてられたパリ大学都市の日本館1号室に1年間住んだ。ここからオペラ座に近い新聞中央研究所(CFJ)とパリ政治学院に通った。新著「フランス人の不思議な頭の中」(角川学芸出版)を上梓した作家・ジャーナリストの山口昌子氏はCFJ時代の先輩にあたる。山口氏はCFJの記者養成の一般課程のみならずヨーロッパを特に学ぶEU特別講座の2コースにわたってCFJへ留学しているので知識の深さは年季が入って半端じゃない。そのうえ21年間も新聞社のパリ支局長を務めたのでフランス人よりもフランス的ものの見方は鋭い。フランス人よりもフランスに通じた稀有な存在なのである。確かにフランス人には不思議なところが多い。新著はその不思議シリーズ1弾「大国フランスの不思議」に次ぐ2弾目だ。日本人の知らない大国フランスの謎解きである。フランス大統領府エリゼ宮の深部も入り込んでみた。歴代大統領でリベルタン(好色)でなかっったのは救国の英雄ドゴールだけで、あとはどの大統領も日本人にはとても理解できない乱脈ぶりだ。サルコジとオランドも美人女優とのもて方を競い合っているようで、逆に見苦しいほどだ。色と恋はどこにもあろう。食はどうか。なぜフランス料理が宮中の公式晩餐会では定番メニュにもなったのだろう。美食大国フランスで左翼の大統領ミッテランは死の1週間前、前立腺がんが骨に転移した段階で「これで食いおさめ」のクリスマスに、好物の生ガキ30個、フォワグラ、丸焼きシャボン(鳥)、ズアオホオジロ2羽をぺろりたいあげたという。最後にこれだけ食べれば、あの世では想い残すこともなかったろう。新著「フランス人の不思議な頭の中」は「佐渡人のくらしをつむぐ」とほぼ同じころ出来上がった。「佐渡人のくらしをつむぐ」を読みましたとの便りが届いた。「特に兄上への追悼文、すごく良かったです。素晴らしい兄上でしたね。本当に充実した幸せな一生というのは、兄上のような一生なのだと思いました。写真をみると、岩田さんは母上に似ており、兄上は父上に似ているように思えます。それにしても、「佐渡」という故郷のある岩田さんが羨ましいです。私は植民地で生まれたせいか、いつも根無し草のような頼りなさを感じています。今度、大連に行っても、これが生まれ故郷との実感が実は乏しく、ますます不安定な気持ちになってしまいました。わずかに懐かしい土地は子供時代を過ごした品川の御殿山というところですが、同じ東京なのに、だからと言って、行ってみようという気も起きません。パリよりも遠いところにあるような気がしています。最近、生まれて初めてといっていいのですが、JRを利用しているのですが、というのも、中、高校はバス通学、大学も私鉄とバス通学、会社も私鉄と地下鉄だったので、山手線で品川、大崎、五反田を通過するのですが、御殿山というのは、この品川と五反田の中間にあるのですが、不思議に懐かしい気が起きないのです」不思議さに挑戦し続ける作家である。
2014/07/29 英国がドイツに宣戦布告してから100年目となる8月4日――この日を境に紛争は世界大戦と化した。世界はこれまでヒトラーとホロコーストを生んだ第2次世界大戦のほうに注目していた。勃発から100年の節目を迎え、第1次世界大戦が再び注目されつつある。第1次世界大戦は今も欧州では強烈な存在感を示し、フランスとベルギーでは何百もの小さな町に戦没者の名前を記した記念碑が保存されている。ドイツが初めて毒ガスを大規模に使用したベルギーの都市イーペルでは、毎晩午後8時になると、地元のラッパ隊が「ラストポスト(軍葬ラッパ)」を演奏している。1928年から続く伝統だ。イーペルでは1914年の「クリスマス休戦」を記念するために年に1度、サッカーのトーナメント戦が行われる。当時、英国とドイツの兵士は武器を置いて、双方の塹壕の間の中間地帯でサッカーをした。ブリュッセルの中心部には、1914年8月3日に前線に向けて兵士が出発した場所に記念のプラークが置かれている。この兵士の多くが死亡した。ベルギー・フランドル地方の遺産と観光を管轄する当局のトップは「この地方の人間でなければ、3世代目、4世代目になってもなぜこのような習慣が残っているのか、想像できないかもしれない」と話す。英国は国内の全世帯に対し、8月4日の午後11時に全ての照明を消すよう呼び掛けている。100年前のちょうどこの時間、英国は大戦に参戦した。当時のエドワード・グレイ外相の有名な言葉「欧州中の明かりが消えるだろう。われわれが生きている間に、その明かりが2度と灯ることはない」を記念するイベントだ。英国は大戦で亡くなった英国連邦内の犠牲者の数と同じ88万8246本のセラミック製のポピーをロンドン塔に設置した。8月にはフランスとドイツの大統領がフランスのベルダンで会談する。両国は100年前にこの地で10カ月にわたって戦闘を繰り広げ、25万人を超える人が亡くなった。ベルギーのアントワープでは、100年前に包囲から逃れるために使われたポンツーンブリッジがベルギー政府によって再建されている。カナダ人兵士ジョン・マックレア氏の詩「In Flanders Fields(フランドルの野にて)」に描かれたフランドル地方は2018年まで年間50万人の観光客が訪れると期待している。さまざまな記念行事が行われ、大戦を見直す新刊本がベストセラーになり、かつての論争が再び息を吹き返しつつある。歴史家の中には、ドイツがセルビアと対立していたオーストリア=ハンガリー帝国を支持し、中立的な立場を取っていたベルギーに侵攻した結果、大戦が始まったとしてドイツの責任を指摘する向きもある。一方で、当時は欧州各国が軍事的にも外交的にも瀬戸際政策を展開していたため、責任は各国にあるとする見方もある。ドイツでは他の国と比べると、大掛かりな記念式典は少ない。メルケル首相は26日にイーペルで行われた記念式典にEU首脳とともに出席した。歴史家は、ドイツ人が数十年にわたって第2次世界大戦の過ちに苦しみ続けており、第1次世界大戦に改めて目を向けたくないのかもしれないと指摘している。ドイツのエッカルト・クンツ駐ベルギー大使はドイツが100年という節目を軽視しているとの見方を否定した。今まで多くのドイツ人が第1次世界大戦にはあまり注目してこなかったことは認めている。クンツ大使は「第1次世界大戦は第2次世界大戦、ホロコースト、欧州の分裂、ドイツの分裂の影に隠れていた」が、それも今では変わりつつあると述べた。英国の指導者は戦争が悲劇的な過ちだったのか、それとも尊い戦いだったのかという問いをめぐって非難の応酬を繰り広げている。マイケル・ゴーブ教育相はデイリー・メール紙に寄稿し、大戦を「誤った戦い、悲惨な過ちの連続」と表現する動きを批判した。ゴーブ氏は英国がドイツの「情け容赦ない」暴政に固い決意を持って立ち向かったと述べた。 フランツ・フェンディナント大公夫妻 Agence France-Presse/Getty Images  暗殺者プリンツィプをめぐる意見の対立はさらに激しい。プリンツィプと共謀者たちはオーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア支配を終わらせることだけを考えていた。彼らは年老いた皇帝の後を継ぐとみられていたフランツ・フェルディナント大公のサラエボ訪問を予想して、セルビア内部からの支援を得て暗殺計画を企てた。  1914年6月28日、大公の車列がサラエボの町を進むと、共謀者の1人が手りゅう弾を投げつけた。大公には当たらなかったが、複数の随行者が負傷した。大公は入院した随行員を見舞うことにしたが、車が道を誤り、プリンツィプの目の前を走った。プリンツィプは大公と妻のゾフィーを狙って至近距離から銃を発射、2人を殺害した。  当時20歳になっていなかったプリンツィプは絞首刑を免れたが、数年後、服役中に死亡した。オーストリア=ハンガリー帝国は報復としてサラエボを攻撃、欧州各国は即座に敵味方に分かれた。新しい兵器の登場によって大戦ではかつてないほど多くの人が死んだ。  プリンツィプの亡骸はサラエボ郊外の、ビールの看板のすぐ隣にある小さな礼拝堂に安置されている。そこを訪れたときには、2つの枯れた花束とろうそく1本が供えられていた。  多くのセルビア人は、戦争を望んでいた欧州の列強はプリンツィプによる暗殺を言い訳に利用した上、今になっても自らの罪を隠そうと、暗殺が大戦の原因だったと強調していると考えている。一部には、プリンツィプをオーストリア=ハンガリー帝国の支配からスラブ人を解放しようとした英雄とみる人々もいる。  ボスニアにあるバンジャ・ルカ大学の歴史家、Zeljko Vujadinovic氏は「第1次世界大戦に関係した全ての国、特に修正主義的な願望を持つ国は、ガブリロ・プリンツィプを大量虐殺者や暗殺者、オサマ・ビン・ラディンと呼び、彼を非難する口実を探している」と語った。
2014/07/28 上海の食品加工会社が使用期限切れ食材を加工していた問題で、米国にある親会社は、上海の会社で製造されたすべての商品を市場から回収すると発表した。上海の食品加工会社「上海福喜食品」は使用期限が切れた食材を加工していたと指摘された。上海市当局は、会社が組織的に不正を行っていた疑いがあるとし関係者の身柄を拘束して調査した。米シカゴ近郊に本社がある親会社のOSIグループはホーームページで「上海福喜食品」が製造したすべての商品を市場から回収すると発表した。声明は不正が起きた原因を突き止めるために「過去の管理者も対象に徹底した内部調査を行い、責任者には法的措置も含めて厳しく対処していく」とした。中国で今後もビジネスを続けていきたいという。「上海福喜食品」は、これまで中国や香港のほか、日本マクドナルドとファミリーマートにも商品を出荷していた。期限切れ食肉を供給していた親会社の米食材卸大手OSIグループ(OSI Group)が商品の回収を発表し、商品の主要な供給先だった北京や上海のマクドナルドではメニューから主力商品のバーガーのいくつかが姿を消した。日本マクドナルドは中国製チキン販売を中止しタイ製に切り替えた。中国国内のマクドナルドの宅配サービスのオペレーターによると、上海地域ではビーフとチキン関連の商品は注文できなくなった。フィッシュとポークの商品は通常通りオーダーできる。OSIグループ傘下の中国食肉加工会社「上海福喜食品」の関連製品は、安全面の懸念からすべて販売を中止し、それらは主にビーフとチキンの商品だという。北京中心部のマクドナルドではカウンターでスタッフが客に、販売しているのはフィレオフィッシュだけだと説明する姿もみられた。すべてのレジには、中国語と英語の両方で「申し訳ございませんが現在、当店ではメニューの一部しか販売できません」と書かれた告知があった。商品不足が中国全土でどの程度に及んでいるのかは定かでない。4月末時点でマクドナルドは中国に2000店を超える店舗を展開している。
2014/07/28 イスラエルが8日に軍事作戦を始めて以降、ガザの死者数が1000人を超え、負傷者が6000人以上に達した。ガザで戦闘を続けるイスラエルとイスラム原理主義組織ハマスは26日午前8時から12時間の一時停戦に入った。パレスチナ自治区ガザを支配するイスラム原理主義組織ハマスはイスラエルとの一時停戦の延長を拒否した。イスラエルのメディアによると、ガザからイスラエルに向けてロケット弾などによる攻撃が再開された。人道目的の一時停戦としては最長。攻撃で倒壊した建物の捜索がこの間に進み、多くの遺体が見つかった。ケリー米国務長官、フランスのファビウス外相、ハマスに影響力を持つカタールやトルコの外相らによる外相級会合がパリで開かれた。ファビウス氏は一時停戦の延長を呼びかけることで一致したことを明らかにした。ガザ戦争は米国や欧州連合(EU)の調停外交がほとんど奏功しなくなってきた。反ハマス姿勢のエジプト新政権はハマスへの影響力を行使できない。アラブの春の最悪の結末になってきた。
2014/07/24 マレーシア航空機墜落事故の犠牲者がウクライナ東部ハリコフから犠牲者数の多いオランダへ帰着しアイントフォーヘンの施設に安置された。オランダ国王らが出迎えた。撃墜された航空機が出発したアムステルダムのスキポール空港では数えきれない花束が手向けられ、涙を流す人々の姿がみられた。オランダ・ティメルマン外相は「政治ゲームをしている人がいるならそれは遺体を使ったゲームであり下劣な行為」と述べた。ロシア・プーチン大統領は「ロシアはウクライナ南東部の親ロシア派に影響力を行使するよう言われている。できる限り努力する」と述べ、米国は「ロシアが事件に直接関与したとは言えない」と批判トーンを弱めた。オランダと米国は厳しい態度を崩していないあが、欧州連合(EU)内の対ロシア温度差の存在は疑えない。ブリュッセルのEU外相会合では即時制裁強化では合意できず、ロシアへの制裁準備の合意にとどまった。ブレーキをかけたのはフランスだ。フランスとロシアは巨額な武器取引をしているためだ。英国のキャメロン首相は「ヨーロッパ諸国は米国同様にロシアは兵器を輸出しないよう表明すべきだ」と主張し、米国ハーフ副報道官は「フランスの戦艦引き渡しは不当であることは明白だ」と述べた。プーチン大統領は安全保障会議で「ロシアは本格的な調査のために可能な限り力を尽くす」と述べ、親ロシア派へ働きかけるとした。
2014/07/22 佐渡島には16世紀末から400年間稼動した日本最大の金銀山をはじめ、採鉱から精錬に至る一連の鉱山技術・鉱山経営手法に基ずく文化的伝統が形成され、遺跡・建造物・鉱山都市・集落として継承保存されてきた。ユネスコの世界遺産への登録を目指す資産は相川金銀山、西三川砂金山、鶴子銀山、新穂銀山などで「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」としてきたが、4つの代表的鉱山のうち新穂銀山を取り外すことにした。新潟県教委の北村亮・世界遺産登録推進室長はその理由を「富岡の製糸場と絹産業遺産群の推薦・協議過程を見ると、世界遺産へのストーリーの作り方を金に特化したほうが推薦されやすいと判断した」と説明していた。相川金銀山に保存されている資産のうち、間歩・路頭掘り群、宗大夫間歩、南沢疎水道、佐渡奉行所跡、御料局佐渡支庁跡、鐘楼、大久保長安逆修塔、河村彦左衛門供養塔が国の史跡に指定されている。 島内に点在するその他の資産のうち、蓮華峰寺弘法堂、小比叡神社本殿・鳥居、妙宣寺五重塔が国の重要文化財に、宿根木が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。政府は2010年10月、すでに世界遺産に登録されている「石見銀山遺跡とその文化的景観(島根県)」と統合した形で登録をめざすとしていた従来の方針を転換し、金の生産に主眼を置き単独での登録を目指すとして暫定リストへの掲載を決定した。佐渡金銀山の世界的価値は①400年の鉱山遺跡がアジアを代表する鉱山②佐渡の金山は江戸時代の国家財政を支えた③金生産過程の絵巻が100点以上残っている―と説明された。これでも不十分であろう。江戸時代における相川金山の経済的側面の現代的総括を高めねばならない。ここに最も大きなストーリー性があるからだ。
2014/07/21 東京・吉祥寺の井の頭公園は繁華街に近いわりに静かな森と池、動物園や文化施設が心を和ます憩いの場である。その池の水が汚れたのと、ブルーギルなど外来魚の駆除のために、池の水抜き「かいぼり」が行われた。井の頭公園は3年後が開園100年になる。池は神田川の源流でもあり、「水をきれいに」という要望が出るほど濁っていた。透明度はまったくない。「かいぼり」が行ってみると、池の中から大量の自転車が出てきた。現在は池の注水も終わり、元通りの水がたゆたい、白鳥のボートが池に浮かんでいた。公園に訪れた市民からは「水質がきれいになった」「水抜いたんだ。あまりきれいになってないね」「大きい魚みたいな生き物はいなくなったんだね」などの声が聞かれた。「かいぼり」の成果はどうだったのだろうか。「かいぼり」とは、もともとは農業のための年中行事で、農作業を行わない冬に、灌漑用のため池の水を抜き、池底を1か月ほど干したり、ヘドロや土砂を取り除く作業のことだ。井の頭公園では、2017年の開園100周年に向けて、池の水質改善や外来生物の駆除を目的に、あと2回「かいぼり」を行う。「かいぼり」は都立公園としては初めてという。「かいぼり」は、1月18日から「水抜き」、それと並行して1月29日から池底の「天日干し」を2月23日まで実施。外来生物の捕獲作業などは1月25日から2月23日まで行った。2月24日から3月8日にかけて注水し、池に水を戻した。保護した在来生物の再放流は3月9日、15日に行われた。「かいぼり」は、東京都や武蔵野、三鷹市など自治体と民間でつくる「井の頭恩賜公園100年実行委員会」が主催した。実際の「かいぼり」の作業はNPO法人「生態工房」を中心に行った。「かいぼり」の大きな目的は「生態系の回復」と「水質改善」。まずは、生態系を元の池の状態に取り戻すために、池の水を抜いて、モツゴやニゴイ、ギンブナ、テナガエビなどの在来生物は保護し、オオクチバスやブルーギル、アメリカザリガニやミドリガメなどの外来生物は排除する作業を行った。
2014/07/19 オバマ米大統領はロシアのプーチン大統領と電話会談しウクライナ問題を協議した。オバマ氏はロシアが事態収拾への具体策を講じなければ、制裁により今後も代償を払うことになると警告した。オバマ氏は情勢沈静化方策として①)停戦受諾へ親ロシア派説得②)戦闘員と武器のウクライナへの流入停止③)親ロ派に拘束されている人質の解放―などを要求した。米政府はロシアのエネルギー産業などを対象に制裁を大幅に強化した。これに対しプーチン大統領はウクライナで起きたマレーシア旅客機の墜落に触れたという。オバマ大統領はウクライナのポロシェンコ大統領とも電話会談し、親ロ派が掌握するウクライナ東部で地対空ミサイルに撃墜されたボーイング777型機の残骸について証拠改ざんを防ぐ必要性があるとの認識で一致した。ホワイトハウスは、「この悲劇のあらゆる側面の調査が国際調査団によって可能となるまでウクライナ領域の墜落現場に残されたすべての証拠は、そのままの状態にしておく必要があるという点を両大統領は強調した」と発表した。オバマ大統領は記者会見で「乗客乗員298人が乗っていた同機が墜落した原因を調査するためすべての可能な支援を速やかに提供する。地対空ミサイルがウクライナの親ロ派支配地区から民間航空機に発射され墜落した。多くの犠牲者が出た。これは世界的大惨事だ。ウクライナの親ロシア派はロシアから軍事支援を受けており、国連を中心にマレーシア旅客機墜落の実態調査が行われよう。米国はこれに必要なあらゆるものを提供するつもりだ」と話した。
2014/07/18 アムステルダム発クアラルンプール行きのマレーシアの旅客のボーイング777型がウクライナ東部上空で地対空ミサイルによって撃墜された。乗客280人と乗員15人の合わせて295人全員が死亡した。ロシアのインタファクス通信がウクライナ内務省高官の情報として撃墜は親ロシア派のミサイル攻撃によるものと報じた。内務省のゲラシェンコ氏によると、撃墜された飛行機は、ドネツク市近郊に墜落した。複数のウクライナ当局者は、地元住民が墜落した機体の残骸を発見したと述べた。マレーシア航空は、短文投稿サイト「ツイッター」上で、アムステルダム発のマレーシア航空17便との交信が途絶えたとし「機体が最後に確認された地点はウクライナ上空だった」と明らかにした。ヤツェニュク首相の報道官によると、首相は事故を重く受け止め、調査を行うよう命じた。岸田外相は訪問先のウクライナ・キエフでポロシェンコ大統領と面会し、ウクライナの安定にむけて支援を続けることを表明した。ウクライナ側はロシアへの追加制裁を日本に求めたという。外相は親ロシア派との対立が続くウクライナ東部の情勢について、対話を通し平和的に解決するのが望ましいとの考えを伝えた。マレーシア航空機の撃墜イについては外相は「アムステルダムの日本大使館を通じて日本人乗客の有無確認を指示した」と話した。ポロシェンコ大統領は、米国と欧州連合(EU)が追加制裁を発表したことに触れ、日本にも同様の措置をとるよう求め、航空機墜落については「これまでにウクライナ機2機が親ロシア派によて撃墜されている」と話しロシアの関与を示唆した。
2014/07/16 中国やロシア、インド、中国、ブラジル、南アフリカのBRICSと呼ばれる5か国の首脳会議はブラジルのフォルタレーザで開かれた。会議後の共同宣言で5か国は、国連を中心とする多国間主義の重要性を強調し国連改革を求めた。ブラジルやインドなどがより重要な役割を担うべきだと欧米主導の国際秩序に異を唱え、発展途上国を支援する開発銀行の創設などで合意したと発表した。開発銀行は2年前インドから発案され、正式合意に漕ぎ着けた。新興国を軸に新たな国際秩序を構築していく姿勢を鮮明にた。銀行本部は中国・上海に置かれ、初代総裁はインドから選出し南アフリカには出張所が置かれる。銀行の最大出資国となるのは中国だ。さらに一方的軍事介入や経済制裁に反対する文言も盛り込まれ、ロシアと中国の主張が色濃く反映された。BRICS各国の間では、インドは経済立て直しのため日本との関係を重視するなど先進国との距離感が一致しているとは言えない。今後どれだけ結束して国際社会で行動していけるのかが試されよう。ロシアはBRICS諸国の間でエネルギーを備蓄する機関の創設を提案し、欧州連合(EU)がエネルギーのロシア依存からの脱却を目指すなかで、BRICS各国との関係強化を図った。またロシアはBRICSによる独自の銀行創設で発展途上国の開発を支援し、米国をはじめとする先進国主導の国際通貨基金(IMF)や世界銀行に対抗しようと企てた。プーチン大統領は首脳会談に先立ってキューバやニカラグアを相次ぎ訪れて、新興国とともにこうした反米政策をとる国々との連携を強化することで国際的孤立感を払拭し、米国による一極支配の阻止を狙った。中国の習近平主席は、第2次世界大戦をファシズムに対する戦争と位置づけ「国際正義のために戦後70周年記念事業を成功させよう」と訴え、歴史の見直しに抵抗する姿勢を展開した。
2014/07/11 第6回米中戦略・経済対話が北京で行われた。習近平国家主席は開幕式の演説で35年になる米中国交正常化を「天高く自由に鳥は飛び、広い海を魚が跳ねる。太平洋は両国を受け入れるのに十分な空間がある。中国と米国が対抗すれば世界は不幸になる。主権と領土、発展の道の選択を尊重すべきだ」との「新型大国関係」構築の持論を展開した。オバマ米大統領もワシントンからこれに応える声明を出し「実務的な協力と差異の建設的な管理に規定された『新型』の中国との関係を目指す。歴史と文化が違う以上、常に意見が一致しないのは想定の範囲である」と表明した。「新型」との言葉が双方から強調された。中国としては東シナ海や南シナ海での摩擦に米国が介入しないようけん制したものであろう。米中とも対立の回避では一致したものの中国は「新型大国関係」の構築によってチベットや南シナ海などの「核心的利益」を尊重するよう米国に求めた。ケリー米国務長官は「習氏が何度も大国関係の新しい型について話すのを聞いた。だが、新しい型とは言葉ではなく行動によって定義される」としアジア回帰政策に「中国封じ込めの意図はない」と説明した。ケリー氏は「話さねばならぬ地域の安全保障問題がある」と指摘し「米中はライバルではなく地域の安保で協力すべきだ」とアジアへの関与を明確にした。米中対話になじまない問題はどのような展開をたどるのだろう。「文明の衝突」史観にたつハンチントン・ハーバード教授は1993年に発表した論文の中で冷戦終結後の世界を8つの文明に分け、これらの文明の衝突と競い合いによって世界は動くとの史観を展開した。この理論に従えば、米中対話は西欧キリスト教文明と中国の儒教文明の競い合いということになる。だが、文明に優劣の差はない。3つの宗教のはざまにある中東紛争は米中対話だけでは解決できまい。アジアの領土問題の一方の当事者は中華の振興を唱える世界制覇論であろう。これも米中対話だけでは解決できまい。文明の力というより各国のナショナリズムが衝突しているのが実態だからだ。そういう意味で東西冷戦は終わるどころか、第1次世界大戦前のような民族国家の複雑なナショナリズムが勃興しているのである。
2014/07/10 ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972年)が暮らした鎌倉市の自宅から、初恋の相手とされる伊藤初代(1906~51年)と交わした書簡計11通が見つかった。川端は相手への思いを綿々とつづった。11通のうち10通は初代から川端宛てで1通は川端が初代宛てに書いた未投函の手紙だった。初代は東京・本郷のカフェで働き、岐阜県の寺の養女となった。1921年、22歳の川端と15歳の初代は婚約したものの初代は「ある非常」を理由に約束を破棄した。川端による未投函の手紙は約700字で初代からの返事が遅れていることに「恋しくつて恋しくつて、早く会はないと僕は何も手につかない。本当に病気ぢやないのかと思ふと夜も眠れない」と切実な思いを記した。書いた時期は文面から21年10月下旬以降とみられる。初代が手紙を書いたのは同年9月から11月にかけてだ。10月下旬までは「私の様な物を愛して下さいますのは私にとってほんとうに幸福なことです」とつづっているのに、11月初旬に届いた手紙は初代が一方的に別れを告げるものだった。結婚の約束を果たせないのは「ある非常」のためであり、それを話すくらいなら「死だほうがどんなに幸福でせう」とする激しい内容だ。川端は24年に発表した短編「非常」でこの手紙をほぼそのまま再現し体験に基づいて作品を書いたことが裏付けられた。11月下旬の最後の手紙で初代は川端への恨みをつづり、別れは決定的となった。昭和47年(1972年)4月16日、川端は鎌倉の自宅から2キロ離れた逗子マリーナの仕事部屋でガス管をくわえ自ら命を絶た。このころ私は、のちに芥川賞作家へ転じた辺見庸氏とともに横浜支局の新人記者時代であった。自殺の現場取材は鎌倉に住んでいた文化部ベテランの森野朔郎氏が当たった。遺体はその日のうちに逗子から鎌倉へ担架に乗せて運ばれた。立原正秋や小林秀雄らの鎌倉文化人も弔問に訪れた。この縁で川端の自宅へよく通った。吉屋信子記念館もすぐ近くだ。川端の後継者ともいえる三島由紀夫の記念館は山中湖畔にある。ここで三島が若い時に書いた「遺書」を初めて目にした。2人の作家活動の中では川端のラブレターと三島の遺言は同じような位相を占めるだろう。2人とも自ら死を決断したのである。
2014/07/08 ドイツのメルケル首相は中国訪問のため成都に到着し、北京で6、7両日、2回にわたって李克強首相と会談した。ドイツと中国の貿易総額は過去3年、年間で約1400億ユーロ。ドイツの今年第1・四半期の対中輸出は9.8%拡大した。首相の訪中には企業代表団が同行。航空大手ルフトハンザと中国国際航空合弁設立契約が取り交わされた。中国側の発表によると、6日の会談で両首脳は「両国関係は重要だ」との認識で一致するとともに「さまざまな分野で協力を深め、国際問題でも意思疎通と共同歩調を保ちたい」との考えを伝え合った。7日の会談結果、両首脳は、自動車や航空をはじめとする経済分野での関係強化で合意し関連の文書に署名した。7日の会談では、メルケル首相は冒頭発言で「われわれの協力は経済に限定されるものではない。対話は社会問題や人権問題にも広がる」と一部メディアは伝え、中国側に人権問題の改善を図るようくぎを刺した。李首相も会談後の会見で「われわれが包括的な改革というとき、政治、経済、環境などに加えて人権分野の改革も含まれる」と発言した。これは中国が人権問題の改善に取り組んでいる姿勢を強調したものと受け止められている。中国としては国際社会からの批判をかわ狙いがあろう。中国とドイツの間には「言うべきことを言い合いながら経済関係は続行する」というルールが成立しているようである。ドイツの情報機関、連邦憲法擁護庁のハンス・ゲオルク・マーセン長官は、週刊紙ウェルト日曜版に国内の企業は中国政府機関による産業スパイの脅威にさらされていると中国に対する警戒を呼び掛けた。
2014/07/06 米国の対英独立革命発祥の地ボストンは17世紀初め、英イングランドから渡った清教徒たちによって築かれた米国では最古の街の一つだ。世界中から異国の文物が集まった。19世紀の終わりにはボストンは全米屈指の貿易と産業の中心地となった。文学や芸術の重要な拠点となった。この経済・文化的隆盛を背景に明治時代に来日したボストニアンたちは、単に日本美術の愛好者というだけでなく、日本を深く理解し、日本文化の研究者として日本文化の普及に乗り出すものも現れた。ボストン美術館に日本美術コレクションが充実しているのはこれらの人々のおかげであろう。エドワード・モース、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・スタージス・ビゲローのボストン近郊出身の3人によってボストン美術館の基礎は築かれた。1877年に腕足類の研究のため初来日したモースは、東大理学部教授として教鞭をとり、帰国後はセーラムのピボティ科学アカデミー館長に就任し日本文化について講演した。モースの影響で来日したボストニアンは多い。裕福な医師ビゲローもその1人だ。モースの推薦で来日し東大で政治学を論じたフェノロサは日本画の復興運動や東京藝大の前身・東京美術学校の設立に貢献した。明治の日本画壇や美術教育に大きな足跡を残した。モースがビゲローを伴い1882年、再来日した際、フェノロサと3人で日本美術収の旅行をした。このときモースは陶磁器、フェノロサは絵画、ピゲローは浮世絵、漆器、刀剣、などの工芸品を買い求めた。フェノロサは帰国後、ボストン美術館の日本美術部長として日本美術の展覧会を開催した。19世紀後半の芸術界でフェノロサほど米国におけるジャポニズムに影響を与えた人はいないだろう。米国における日本文化の普及に重要な役割を果たした岡倉天心も忘れてはならない。ピゲローの紹介によって岡倉は1904年、ボストン美術館に迎えられた。ボストン社交界の女王ガードナー夫人の援助を受け、岡倉はモース、フェノロサとともにボストン知識人の間で日本美術の伝道者の地位を確立した。岡倉はボストン美術館だけでなく1904年のセントルイス万博やニューヨークなどでも日本美術について講演を行った。世田谷美術館の「華麗なる美術展」ではガードナー夫人らと映った和服姿の岡倉の姿が見え、モース、フェノロサ、ピゲローと4人並んだ岡倉の写真も掲げられていた。
2014/07/05 19世紀末から20世紀初頭にかけ日本の美術がヨーロッパ人に大流行したことがあった。鎖国・日本の美術や文化がヨーロッパ人の想像力に強烈な刺激を与えた。島国の文物は熱狂的に瞬く間にヨーロッパの美意識にとりわけ印象派に大きな影響を与えた。この芸術運動はジャポニズムと呼ばれる。このジャポニズムをテーマにしたボストン美術館の絵画、写真、版画、工芸などを集めた「華麗なるジャポニスム展ー印象派を魅了した日本の美」が世田谷美術館で行われている。クロード・モネ、マネ、ドガ、ルノワール、カサット、ファン・ゴッホ、ロートレック、ゴーギャン、ムンクなどの作品が一堂に会した。これら印象派の画家たちの作品には日本の美術とりわけ浮世絵の影響を見て取ることができよう。特筆すべきは初期ジャポニズムを代表するクロード・モネの大作「ラ・ジャポネーズ」(1876年)は1年間の修復を経て日本で初公開された。この前に立って観よう。鮮やかな赤。主題は色彩だ。「日本の女性」を題にしながらモデルは妻カミーユで日本女性の顔ではない。金色の目をした金髪の女性は手に持つ扇子に赤・白・青の3色が描かれた。フランス国旗の色である。後ろの青い壁にはうちわや扇子が描かれ、壮麗で圧倒する赤い着物には刀を手にした武人が描かれた。「日本人の姿をしたパリジエンヌ」なのである。モネは当初この作品の題を「ジャポヌリ」(日本びいき)とした。批評家たちの強い関心を呼んだ。ある評論家は「この絵は日本の舞台衣装を試す若い女性である。彼女は開いた扇子を持って立ち、それを顏の高さに持ち上げている。微笑みながらこの衣装の役柄を快活に演じ続け、かわいらしいパリジエンヌとして自分の姿態をねじることによって裾の長い衣装の効果を楽しんでいる」と論評した。
2014/07/05 習近平国家主席はソウル大学で「明るい未来のためにともにアジアの未来を築こう」と題して講演し「韓国と中国は隣国としてアジアの中で経済成長を成し遂げてきた共通の歴史がある。日本軍国主義者が中韓に野蛮な侵略を強行し、対日戦争が最も激しかった時、両国民は生死を共にして互いに助け合った。私たちは東方の知恵で互いの夢を合わせ、それが新しいアジアの夢になるべく努力しなければならない」と訴えた。東北アジアは大きな「内部矛盾」を抱えてきた。支持率が急落してきた朴槿恵大統領は「韓米同盟」の枠組みに気兼ねして中国との共闘にはためらうだろう。習氏の「反日」前のめり姿勢は北朝鮮との血の同盟を退けることになるからだ。3月末ドイツでも習氏は「日本軍国主義は南京市で中国軍民30万人超を虐殺した」と反日発言した。習氏はソウル大講演で、20世紀前半の抗日戦争だけでなく豊臣秀吉の朝鮮出兵にも言及した。韓国と中国は共に被害者というわけだ。この主張は日本では共感を得られまい。ソウル大での習氏の講演は、日米の影響力を排除した中国主導の「アジア新秩序」構築を狙ったものだ。中国流アジア秩序論の東北アジアにおける最大のパートナーは北朝鮮であったはずだ。韓国は朝鮮戦争を米国との同盟によって中国とも戦った国だ。小異を残して大同につく共存共栄のアジアの未来を構想したい。

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岩田 雅プロフィール

近影

佐渡市(旧金井町)出身
1946年生まれ
(東京都世田谷区在住)
元通信社論説委員
2010年日本ペンクラブ会員

国際評論集

  • 第1弾「鬼太鼓の鬼 世界をゆく」(2010年)
  • 第2弾「鬼太鼓の鬼 アジアをゆく」
  • 第3弾「鬼太鼓の鬼 世界をゆく―女王のいる共和国」
    (2011年)
  • 第4弾「時代を歩く―評伝。
    本間雅晴のころ」
    (2012年)
  • 第5弾「時代と生きる-
    みやこの西北・早稲田の杜」
    (2013年)
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